東中野教会創立1〇〇年記念礼拝 宣教から

愛には恐れがない  

-- 新  し  い  掟 --
          織田信行牧師                    
   

穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。 収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。・・・これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。 わたしはあなたたちの神、主である。 (レビ記19章9〜10節)

 あなたがたに新しい掟を与える。 互いに愛し合いなさい。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。    
(ヨハネによる福音書13章34節)

  本日、東中野教会の礎石が据えられてから百年を記念する礼拝を皆様と共にまもることが出来ますことを感謝致します。 今日のこの礼拝を、わたしたちは特別な思いで迎えております。 まず覚えたいことは、本日の礼拝が、今日までの歩みの中で欠けることなく続けられてきた聖日礼拝の上に、もう一つ積み重ねることを許された礼拝であります。
 そして次の二百年への新たな一歩でもあることを、わたしたち教会員は心に刻みたいと思います。

 百年の歩みを思うとき、「時」が良くても悪くても御言葉に依り頼み、礼拝をまもり続け、福音の種子を蒔き続けて来られた由木康牧師をはじめ、北村宗次牧師、その時代時代に豊かな働きをもって支えてくださった諸先生方、そして多くの先達の信仰の足跡を思います。 その中には、戦後の一時期、合同して共に歩んだ現在の同仁キリスト教会の兄弟姉妹がおられます。 その方々も本日の礼拝にご出席いただいております。

 そしてなによりもまず感謝する事とは、わたしたちの、ある時には消え入りそうになった信仰の灯火を消すことをなさらず、今日の礼拝を迎えることをお許しになった、主のご慈愛を改めて深く心に刻むことであります。 東中野教会にとって、本日はそのような日であります。 それらのことを心に深くとどめながら、今日の礼拝も、いつもの聖日礼拝の順序に従い、日毎の糧の聖書日課に示された御言葉に導かれて進められております。

 最初の旧約聖書のレビ記は、今日わたしたちに次のように告げています。
「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。 収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。 ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。 これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。
わたしはあなたたちの神、主である。」             (19章9〜10節)

 レビ記のこの言葉から、おそらくわたしたちにも親しまれている画家ミレーの描いた絵を思い起こす方は多いのではないでしょうか。 その中には有名な『晩鐘』や『種まく人』とともに『落ち穂拾い』と題された絵があります。 わたしも好きな絵ですが、あの絵が見る者の心を癒すのは、おそらく、聖書のこの言葉に根拠があるからではないでしょうか。

「収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。わたしはあなたたちの神、主である。」
                                        (9〜10節)

 聖書のこの言葉があの絵の主題であるように思えてなりません。 ここでの「落ち穂」とは、たまたま畑に取り残された「残り物」のことではありません。 「落ち穂を拾い集めてはならない」とは、収穫のまず最初に、落ち穂によって命をつなぐ人の存在を心に覚えなければならないことを主は教えているのであります。  旧約レビ記のこの言葉に隠されている意味を、わたしたちは福音書のイエスの言葉から次のように教えられます。

イエスはヨハネ福音書の中で、「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。」(4章38節)とありますように、苦労して育て、その収穫をもたらすのは主御自身であり、主はその収穫の業をわたしたちのうちに力強く進めておられる。 その際、収穫を委ねられたわたしたちに落ち穂を拾い集めてはならないと命じられるは、収穫の主がわたしたちの命を養うために、最初から落ち穂を残しておられるからなのであります。

 従って「落ち穂」とは、まさしく「主の恵み」のことであることに気づかされるのであります。 わたしたちの命の救いのために、収穫せずに残された落ち穂によって、わたしたち東中野教会もまた主の恵みを得て、今日という日を迎えていること、そのことへの主の御業の驚きと感謝を、わたしたちはこの御言葉から教えられるのであります。

 そして、同じ「主の恵み」は、今日示されている使徒書、ヨハネの手紙第1、4章の御言葉によっても、そのまま伝えられていることに気づかされます。  「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。  神は愛です。」          (16節)
時にかなった、今日の私たちに相応しい御言葉を与えられたことを感謝したいと思います。

 東中野教会の創立の時代に少し触れさせていただきます。 今から百十年前、野口幽香姉らによって幼児教育の草分け的な働きが「二葉幼稚園」を中心に始められました。 当時、保護が行き届かず、路上の危険に放置されたままの幼児や子供たちの心身の保護と教育のため、1900年に始められたのが二葉幼稚園でありました。 その発足の十年後に、東中野教会の前身となる「二葉集会」が誕生しました。 幼児教育に携わっていた、当時の二葉幼稚園の先生方のための聖書集会がその出発点となりました。 つまり、東中野教会は二葉の中から生まれ、二葉と共に歩んで来たのであります。

 わたしたちの教会の歩みの原点はここにあります。 イエス・キリストの体なる教会は、主の十字架と復活に誕生の原点があります。 そして、主の恵みに与かって生まれた教会は、それぞれに、この地上で誕生へと導かれた出発点をもっています。 しかもそれは、ただその教会の出発点というだけのものではありません。 わたしたちが、東中野教会の出発は「二葉」にあると言うとき、それは歩む方向を新たに見定めるためにそこを振り返り、今いる位置を確かめて、さらに新たな一歩を踏み出すという、そのようなわたしたちの働きの具体的な出発点のことを指します。

 そのような意味において、イエス・キリストを信じる信仰が二葉の働きの中から始まり、成長して現在の東中野教会の働きへとつながっていることを、百年のこの記念の日に、もう一度しっかりと思い起こすことは、東中野教会のこれからの働きにとって、とても大切なことと思っています。

 なぜなら、そのとき、百年前に東中野教会の誕生に際して先達者たちに伝えられ、彼らの内に働いた聖書の御言葉に、この時代のわたしたちも同じように立つことができると思うからであります。 その御言葉が、先に読まれた旧約、及び使徒書のそれと共に、今日示されているヨハネ福音書の主イエスの御言葉であります。

 「あなたがたに新しい掟を与える。 互いに愛し合いなさい。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
                         (ヨハネ福音書13章34〜35節)

 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 主のこの御言葉が、二葉と東中野教会の誕生に際して、その働きへと召された人々に聖霊と共に働いたのであります。 ここに、野口幽香姉たち以来の今日の「二葉」の働きと、由木康牧師を初めとする東中野教会の働きの共通の原点があることをあらためて覚えたいと思います。 そしてここから、主により委ねられた使命をそれぞれの持ち場で、これまでそうでありましたように、これからも共に祈りを合わせて歩んで行くことを願います。

 東中野教会が、主の御心に適った宣教の働きを今日まで進めて来ることが出来たかどうかを、もし、主の御前に謙虚に問うことが許されるとすれば、それはただ、私たちのために主が取り残された「落ち穂」(主の恵み)によってこの時があることを覚えたいと思います。

 そして、その落ち穂の中に隠されている主の豊かな恵みを伝えるという、東中野教会の宣教の働きが、これからも一層、力強く進められて行くことができますように心から祈りたいと思います。

 終りに、東中野教会の百年の歩みの中で、時に適って多くの兄弟姉妹方の支えを与えられたことを、主のお導きと改めて深く感謝を致します。


祈 り

 主よ、あなたは東中野教会に今日までの歩みを御許しになられました。 その道のりの中で、あなたの御心に不従順な時にも、わたしたちの信仰の小さな灯心を消すことをなさらず、大いなる忍耐をもって導いてくださったことを感謝致します。

   また、あなたは東中野教会の働きを支えるためにこれまで多くの兄弟姉妹方をお送りくださいました。 その祈りに支えられて、今日の百年の記念礼拝を迎えることが出来ましたことを感謝致します。 この日に示された主の御言葉を、これからも私たちの歩みの依って立つものとして、順調な時、困難な時、道に迷った時には常に立ち返ることが出来ますように。    主の御名により祈ります。     アーメン

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